真似ぶ、ということ
学ぶは真似ぶとはよくいったもので、一般的に学ぶの語源は真似ぶといわれている、らしい(俺調べ)
実際学ぶには真似ぶが最適なのだと思う。もちろん目に見えないものなんか真似ることは難しいが。でも
真似るって難しいものだなぁとも思う。
よく言われるのは見て盗めという言葉。僕はずっと見て盗めってのは非効率的だ、どんなことだって教えた方が上達が早いに決まっていると怠惰にも考えてきた。だって見てたってなんにも得られないんだもの。
しかし、最近思ったのだが見て盗めとは、別に教えない訳ではないのかもしれない。
百聞は一見に如かずという言葉があるように、つらつら言葉を並べるよりも見せた方がはやい場合はたくさんある。
言葉は偉大だ。言葉に起こすということは万人に再現性を生むということでもある。だけれども、言葉を聞いただけで、その人の感覚が、その人の経験が、目の前にたちあらわれるかと言えばそんなことないのは当たり前。
そういう意味で、見て盗めというのは教育ではない。しかし、教えていないわけでもない。
教えてほしい、教えてしかるべきだというのは僕が今まで学校 教育 のなかで、取りに行かなくても与えられてきたことから繋がっている思考回路なのかもしれない。
そうすると、見て盗めとは自分から取りに行くという姿勢そのものをいっているのやも。
真似るとは
真 に 似 せるである。
文字通り、真に似せなければ真似とは言えないのではないか。一挙手一投足、更には普段の発言まで。そこまで完璧にトレースして初めて、
真似ることができた
↕
真似ぶことができた
と言えるのかもしれない。
言動や思考のトレースというと、食戟のソーマにでてくる変態、美作昴が思い浮かぶ。
相手の思考や行動パターンを完璧にトレースすることで比肩し、その上で超えてくる。
相手を真似ることにかける熱意たるや、ずっぶずぶに犯罪行動に走っているレベルである。
まぁでも逆に考えれば、それだけの熱意があるからこそ自分には見えていない世界を垣間見ることができるようになるのかもしれない?
見て盗むにせよ、真似ぶにせよ、激しい熱意の結果であってそれ自体が何かをうみだすわけではない。のかも。